今日、久しぶりに父と二人で出かける機会がありました。
歳を重ねた父の姿を見て、やるせない気持ちを覚えました。
動きも鈍く、判断力とか理解力が落ちているなと、確かに感じました。
かつての威厳のあった強い父とのギャップに、少し切なさを覚えながらも、
しだいに私は、あることに気づいていくことになりました。
人は「できる・できない」だけで語れるものじゃないということ。
父が兄のことを「いい子だ」と穏やかに話した時、
その一言に、深い愛と記憶、たくさんの思いやりが詰まっているのを感じて、胸が熱くなりました。
体の動きや判断力、理解力の衰えを見て「できなくなった」と判断していた私は、
人を「正しさ」や「効率性」で測っていたのかもしれません。
けれど、そんな見方では見えてこないものがある。
目には見えないけれど、確かにそこにある「愛」や「記憶」や「想い」。
父の静かな一言に、私はそれを感じて、涙が出そうになりました。
実は最近、全く思ってもみなかった言葉をかけられることがありました。
「あなたは全体が見えていない」「コミュニケーションが取れていない」と。
私自身、コミュニケーションをとても大切にしているつもりだったので、
その言葉にはとてもショックを受けました。
でも、今日の父との時間を通して、もしかしたらその人も
「できる・できない」という目線で私を見ていたのかもしれない、
あるいは私自身が、かつて同じような見方をしていたのかもしれない、
そんな風にふと、世の中の色が変わり始めました。
私がずっと大切にしたかったのは「正しさ」ではなく「思いやり」だったのだと。
相手がどんな状態でも、その奥にあるものを感じ取ること。
できることよりも、「今ここにあるその人らしさ」を大切にすること。
父と過ごした静かな時間が、
私の中の「正しさ信仰」を、そっとほどいてくれたのです。
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